2006年08月24日

オーガマ クイガマ Ⅲ

 忘れたころ に 続き・・・・・

前回はここまで



仲宗根豊見親玄雅 の邪心によって 

多良間の地に 志半ばで 命果てた 金志川の金盛 と オーガマ 

   「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 宮古のことは夢のまた夢」

と 秀吉みたいに 詠んだか どうかは 知らんけど・・・・ 

で 一方

その 金盛 の弟 金志川の那喜太知-金志川豊見親 は その後 

城地方の 盟主として 「仁心深く民を憐れむ事 赤子のことし」

と慕われるまでに 成長した 

しかし その 那喜太知 にも 魔の手 が・・・・・
豊見親玄雅 の没後 宮古島の 頭職を世襲した 嫡子 仲屋金盛 は

部下の  「那喜太知 が 親分の悪口 云うてまっせあかんべー」 の 讒言を 真に受け

猜疑心に苛まれ あげくは 陰謀めぐらして 那喜太知 を  誅殺  


那喜太知 は 般若経を 宮古に伝え 情け深く 領民に 父母のように 慕われた人物

仲屋金盛 も 人を見る目が無い がしんたれ二世 

いずれの 家の凋落は 如何ともしがたい   



そして 姉と同様 大事な人を 失った クイガマ 

いままでの 己の来し方を ふりかえり 嘆き 悩み 迷い 

そして 狂おしいほどの 思いで ひとり 御嶽に こもり ひたすら 祈った 
 
そして ついには 煩悩の束縛から 解き放たれ、自由の境地に到達した クイガマ は 

それからも 村の安泰 豊穣 を祈り続け・・・・・ 


そして その後  村人たちは  神意に 目覚めた 姉妹を 

砂川神社の 守り神として 祀られるように なったとさ




時代の波に翻弄された 薄倖な姉妹 といえば そういえる 女の一生か・・・

 (おわり)



で 思うに 仲の良かった 兄弟 姉妹 

いっそ  合祀  したっても ええんちゃうかなと 

お役所が 合祀名簿 作れば 済むこっちゃしおすまし


             
(写真は 兄弟 姉妹が住んだ 友利 砂川 の境界にある 「アマガー」 です)




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この記事へのコメント
歴史を振り返ると、どろどろの憎悪が必ず。
いつか、自分たちも・・・にならんように。。
って、煩悩の固まりだなぁ〜まだまだ(^^;
Posted by 島吉 at 2006年08月24日 17:39
島吉しゃんの やろうとされてる事も
いろんな歴史的背景があるんでしょう
で 女性は大事にしましょうね^^
Posted by TOSHI at 2006年08月25日 17:26
俺ッちが、大事にされてないような(泣
現実は、厳しいですなぁ(^^;
Posted by 島吉 at 2006年08月25日 22:28
>大事にされてないような(笑
これは ウソでしょう。。。です(^^

しやけど 現実はたしかに・・
で しのぐには 
快活と恬淡と う~ん 忍びの術か  ワタシのビャアイ^^
Posted by TOSHI at 2006年08月26日 00:51
TOSHIさん、記事読ませてもらいました。私、金志川豊見親金盛の直系の子孫になります。仲立氏20代目です。ず~っと祖父から金志川金盛、那喜太知
兄弟のことを聞かされて育ちました。宮古島には住んでいないので、あまりピンとこなかったのですが、去年長年行方知れずだった家系図が50年振りに見つかり、それを機に宮古島に行って、金志川屋敷跡や城辺近辺を回ってきて、何か少し祖先を身近に感じるようになりました。今は自分のルーツを知る意味で宮古の歴史に少し興味を持ち始めています。このTOSHIさんの記事も面白く読ませてもらいました。
家系図上は、金志川金盛、那喜太知兄弟の親は、友利大殿になっていますす、が、友利大殿のその先祖は記載されていません。友利大殿は何者?どこから来た人?よくわかりません。友利大殿のことを何かご存知でしたら、お教え下さい。今後も記事を楽しみに読ませてもらいます。
Posted by 仲立氏 at 2008年03月04日 21:44
こんにちは 仲立氏さん  コメント ありがとうございます
金志川兄弟のご子孫の方から コメントを頂き うれしく思っています♪

ワタシ たまに島にプラプラお邪魔する 内地の人間で 暇つぶし図書館の表面的な浅い知識しか
ありませんので お教えするなんてことは トンデモハップンで・・・(^^
かえって こちらこそ 地元に残っている 濃厚な生きた話を教えて頂きたいものです

と いいつつ(苦笑  諸説あるんでしょうが 聞きかじり 読みかじりで 知ってるかぎりの友利大殿・・・

大殿は 兄弟の父 あるいは 叔父にあたるとされているみたいで 上比屋山に屋敷を
構えて住んでいたそうです そして そしてその屋敷は 大殿を祀る御嶽として 
今に 残っているとか・・・ (ハイ まだ現調はしていません)

その友利大殿は 島で最初に 宮古船を 造った人と云われています
大殿の家系には 船の絵図や航海安全を祈願した文が記された双書といわれる書き物が
残っているとも云われていますが 如何ですか

そして この宮古船は -砂川船 とも言われていますが 倭船の構造に非常によく似ており
そうした事から 大殿は この頃 先島地方で 旺盛な貿易活動をしていた 日本の武士軍団の
ひとりではないか とも云われています
ということは 西国武士がご先祖様かも(^^

仲立さんのお名前も この宮古船と関係が おありなんでしょう
宮古 八重山から 首里王府への 貢納物を積んだ船のことを「中立船」というみたいですが 
これも上比屋山にあった造船を業とする「中立」という部落名からとった名称と云われています

わたしが知っている 友利大殿のことはこれ位です

何度も書きますが 
知ったかぶり 皮相浅薄 な知識ですんで 鵜呑みにされないようにお願いします(^^;

お返事 遅くなってすいません 最近サボっておりまして。。。。
おじいさんから 伝えられたお話 機会があればお聞かせください 楽しみにしています
Posted by TOSHITOSHI at 2008年03月06日 15:08
こんばんは。ご無沙汰しております。仲立氏です。
忙しさにかまけて、長らく書き込みをしておりませんでした。申し訳ありません。

友利大殿のこと、またそれに関連すること、お知らせいただきありがとうございます。
砂川船の構造が倭船と似ていること、西国武士との関連の可能性など、とても興味深く拝見しました。
私的には、「武士」というより「倭寇=海賊」でないかと考えていますが、いかがでしょうか?

遙か500年前の時代のことで、想像もつきませんが、きっと友利大殿も金志川金盛、那喜太知も、きっとスケールの大きな人物だったのだろうと感じています。ますます、興味が湧いてきました。

「大殿の家系には 船の絵図や航海安全を祈願した文が記された双書といわれる書き物が残っているとも云われていますが、如何ですか?」とのことですが、これは私も解りません。私の親や身近なものに聞いてみます。

TOSHIさんのご指摘のとおり、当時金志川豊見親(またはその一族)は、宮古城辺地域でかなり大きな勢力で、旺盛な貿易活動をしていたそうで、その貿易活動の中で、仏教の法典を持ち帰って奉納した と聞いています。
当時、宮古地方には仏教が普及していなかったそうで、仏教法典を持ち帰ること自体が、非常に広範な行動範囲と、財力、権力、教養を示す証だと思います。
しかしながら、その法典をどこからどのように入手したのかはわからないようです。
もしかしたら、日本本土や中国の寺社を調べたら、その法典の出所がわかるかも知れませんね。そこから、また新しい情報や発見があるかもしれませんね。

それから、現在の仲立氏-私達の苗字は「仲立」ではありません。「本永」といいます。仲立氏も「内間」や「砂川」など長い年月の間に、苗字が変遷しているようです。(理由はよくわかりませんが、首里王府からの役職や任地、与えられた土地などにより変遷しているようです。)

仲立氏の家系図は、昨年原本を修復し、そのコピーを宮古島総合博物館に寄贈させていただきました。その際には、館長の下地和宏さん、市史編纂委員の仲宗根将ニさんに大変お世話になりました。
機会があれば、TOSHIさんもご覧下さい。

また、面白いお話があればお聞かせ下さい。楽しみにしております。
Posted by 仲立氏 at 2008年07月01日 01:22